金曜日に出張で盛岡に行って来ました。
盛岡駅に着いたのが、ちょうどお昼時だったので、地下の食堂街で盛岡冷麺を食べました。
盛岡冷麺とは、岩手県盛岡市の名物麺料理で、わんこそば、じゃじゃ麺と並んで「盛岡の三大麺」と称されています。
盛岡冷麺の麺は、パスタと同様に小麦粉、片栗粉などを用いた生地に強い力を加え、麺の太さに合わせた穴から押し出して作られる。この際、麺が高温になりアルファ化するために強いコシがもたらされる。この押し出し麺という製法は、盛岡冷麺には不可欠とされています。
その歴史は、冷麺のルーツである朝鮮半島北部(現・北朝鮮)生まれの在日1世の青木輝人(ヤン・ヨンチョル)が、1954年5月に盛岡市で「食道園」を開業し、店で出したのが最初といわれている。料理人としてのプロの技術を持たなかった青木は、自分が子供のころに食べた冷麺を独力で再現しようとしたという。
朝鮮の冷麺はスープのないピビム冷麺が有名だが、スープつきのものもあったといい、青木は自分が好きだったスープつきの冷麺を自分の店で出した。朝鮮独特のかみきれないほどコシの強い麺は当初、盛岡の人には不評で「ゴムを食べているようだ」などと言われ、当時は辛いキムチも日本では一般的ではなかったこともあり、まったく受け入れられなかった。また青木によると、朝鮮の冷麺はソバ粉入りの灰色の麺だったといい、初期は店でもそば粉入りの麺を出していた。この灰色の麺は青木自身にもおいしそうに見えなかったため、青木はかつてフロア責任者として働いた東京の朝鮮料理店で見た白っぽい麺を参考にソバ粉を抜き、麺を白く変える。だが、じゃがいもでんぷんを使ったコシの強い麺や、辛いキムチのトッピング、牛骨ダシ中心の濃厚なスープという「故郷の味の3要素」は、頑固に守り続けた。やがて、盛岡の新しいもの好きな若者たちの間でそのユニークさが「一度食べたらあとを引く」と評判になり、店には常連客があふれるようになった。ここに、「盛岡冷麺」の基本形が完成したといわれる。
ただし、青木は「盛岡冷麺」とは名乗らず、「平壌冷麺」という看板を掲げ続けた。1979年に南大橋の袂に開業した「焼肉ガーデンペコ&ペコ」(2001年閉店)は、テレビ・ラジオ・市内映画館などのメディア広告を使い「冷麺」を宣伝し、この宣伝がヒットして「冷麺」は岩手県内に知れ渡ることとなった。なお、「ペコ&ペコ」では「平壌冷麺」ではなく、単に「冷麺」と呼称していた。
「盛岡冷麺」の名称を、店で使い始めたのは、1987年に創業した「ぴょんぴょん舎」の経営者で在日2世の邊龍雄(ピョン・ヨンウン)である。それまで盛岡では、青木の店にならって「平壌冷麺」、または単に「冷麺」と呼ばれていた。「盛岡冷麺」という名称は当初、在日のコミュニティーからは「故郷の味を安売りするもの」として猛反発を受けた。が、これを機に徐々に「盛岡冷麺」の名が市民に浸透し始め、全国的にも盛岡の名物として知られるようになる。邊をはじめ、青木を追って冷麺をつくり始めた店では、それぞれが独自の試行錯誤を繰り返し、盛岡冷麺の味は次第に日本人の味覚に合ったものに変化しつつある。
こうした「盛岡冷麺」誕生と浸透の経緯は、1993年に朝日新聞岩手版に小西正人記者によって連載された記事「冷麺物語 日本と朝鮮・韓国の間に横たわるもの」で初めて詳細に明らかにされた。連載記事は2007年に「盛岡冷麺物語」(リエゾンパブリッシング刊)として書籍化された。2000年4月からは、さぬきうどん、札幌ラーメン、長崎ちゃんぽん、沖縄そばなどと同様に、公正取引委員会が「盛岡冷麺」の生麺に対して「特産」・「名産」表示を認め、盛岡冷麺は "本場" として認定されました。
とまあ、そんな歴史を経てきたわけですが、正直においしい、と思いました。
ただ、スイカが一緒についてくるのはどうも・・・。
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